武器、裸、棒

 もうダメかもしれない。死のう死のうと言葉ばかりで思っている。死ぬより先にやることはたくさんあるはずなのに、手っ取り早く現状を打破する裏技みたいに死を持ち出して、気狂いのナイフみたいに振り回している。そんなもの使う勇気すらないだろうに。そういうものを本気で使うやつは、いざという時まで引き出しの奥にひっそりとしまっているんだ。そして、よもやこれまでと追い詰められた時になって、ようやくそこに一発逆転の秘密兵器が眠っていたことを思い出したように取り出してくる。そいつを使うことにためらいはあれど、その意志に迷いなど無く、ぐさりとやるんだ。死のう死のうとぼやいているばかりの俺みたいなのは、とりあえず腹底に剣でも呑んでみないかぎりは、そいつを自分の武器にすらできやしない。
 打製石器磨製石器、青銅器、鉄器、人類の武器は歴史とともに頑丈で成形しやすい素材を使うようになっていった。中でも火薬を使った鉄砲の発明は時勢を大きく変えただろう。狩猟から戦争へ。個人から集団へ。より広範囲に、より効率的な殺傷能力を求める過程で武器は次第に身体の感覚から離れていった。使い手が人間である以上、最大の障壁は「実感」だった。傷つける実感。壊す実感。そこから生じる未来への想像力。究極にまで簡略化されたアクションによって、それらの実感が人類の手から奪われてしまった時、武器はこの世界から忽然と姿を消した。一見すると平和に見えなくもない世界。武器を捨てて、手を取り合うことができるかもしれない世界。しかし、武器は捨てられたわけではなかった。形を失くし、実感を失くして、俺たちの心の中に埋め込まれていたのだ。
 愛しかないんじゃないかと思う。よくわからないけど理解を超えたもの。きっとそれがあると信じて疑わない人たちによって、限りなくそれに近づいていく漸近線が描けるのであれば、もうそれがニアリーイコール愛なんじゃないかと思う。幸せになりたいなら幸せになろうとしさえすればいい。いつかそうやって幸せになろうとしていたことすら幸せと呼んでもよかったと思える時がくる。実体がないなんて言うなって。そんなものあったら逆にめんどくさいことになるんだって。理解から遠く離れて、距離感なんて掴めなくて、前に見たやつと一緒かどうかもわからないけど、時とともに形を変えるものだって信じているからこそ納得できるんだって、そんな感じの妄言を吐く人間が世の中には腐るほどいるし、それは俺たちの中に埋め込まれた武器にだって同じことが言える。
 武器を使うのに動作がいらなくなった以上、得物を取り出したり、引き金を引いたり、スイッチを押したり、ましてや武器そのものや標的を思い浮かべるなんてことすら何の意味も持たなくなった。そこには実感がないのだから。何も考えないうちに防衛システムが働いて危険や敵は排除されていく。毎朝の通勤の途中、庭いじりをしていたら犬が吠えた時、久しぶりの一家団欒、パズルゲームでハイスコアを出した時、エトセトラ。思いがけない瞬間に武器は発動し、身を守り、外敵を排除しているかもしれない。しかし、それを当人が知る由は無いのだ。武器を捨てよと高らかに叫んだ挙句が血反吐で赤く染まった水面下を見えないようにするだけの「空はこんなに広いのに」的な、それ本当にハッピーエンド?的な、滝壺に真っ逆さま落ちるのをただ待ち続けているだけのすこぶる病的な世界。大丈夫じゃないのに大丈夫だよって言っちゃって、本当に大丈夫だと思われてるのを自分でも本当は大丈夫なような気がしてきたけど、やっぱりダメだったよ!みたいなのは本当にもうやめにしよう。
 言葉にしたらくだらないと思ってしまうことでも、胸の内に秘めている間は自分だけの大それたことだっていう認識があるからこそ、誰しもが意味ありげな沈黙を捨てきれない。つらいつらいと吐き出し続けたって、つらくても口に出さずにいたって、つらいことには変わりないんだから、そこに優位性なんてものは絶対に生まれないはずなのにね。沈黙。沈黙。沈黙。痛みを口に出さなくなったら、その口にちんぽ突っ込んで、それでも飲み込んでしまうなら、心の中の武器の(本当はそんなものないんだけど)銃口は確実に心臓を狙っているから、そのまま撃ち抜かれて次の段階に行けるかもしれないって思っている天使が昨日部屋の隅でホコリ食べてました。